大友良英

『77 BOADRUM』とか最近のYCAMとか、こういうのを見ていると東京も大した事無いという事がよくわかる。YCAMには行ってみたいし、実際この3連休に行ってしまおうかと結構考えたのだけど、二の足を踏んだ。経済的な理由もあるのだけど、他にも理由はある。

まあ、それはおいておいて。

大友良英の『MUSICS』は、本のほうはさっさと読み終えていたのだけど、DVDを見る事を保留にしていた。それを今日再生したので、やっとインプレが残せる。

本の中身について大きく触れると、ネタばれになってしまうのであまり書くことは出来ないけれど、一つだけ、個人的に大友の歌というものに対しての意識、考え方を読む事が出来た事がこの本の一番の収穫。歌手ではない演奏者にとって、歌、或いは歌い手に対する感情は色々あると思うけれど、それをどう思っているか、どう受け取っているかというのは、個人的な興味だった。大友がそれに対して、さがゆきとの録音や、浜田真理子との関係、カヒミ・カリィONJOに呼んでいる事等を考えて、疎かな視点ではない事はわかっていたけれど、ここにはっきりと言葉に残している事の意味は大きい。

DVDはONJOのライブと、ONJOと音遊びの会によるセッションが収録されている。ONJOのライブは、今年アートスクエアで見たライブに連なるもので、興味深いものだけど、映像の作り方は、まあ、なんていうか、もう少し練りこんで考える部分があっても良かったような気がする。気持ちはわかるけれど、あの映像には惹きこまれる部分は無い。

それに対して余計な演出を端折った音遊びの会とのセッションは、映像としては学芸会を撮影したもののようなものでありながら、だからこそ伝わるものがある。ONJOの面子は全てが音楽で生計を経てている人たちであり、それも、単なる演奏者という立場ではない様な個性の集まり。それらが、言ってしまえば完全なる素人と音楽を共有する事の生み出すスリルがある。素人とプロフェッショナルの共演と言う意味では、オレが知っているだけでもGavin Bryarsや、CANがバンドのメンバーとしてあえてそういうものを抱え込んだものなど、新しい技法ではない。だけどそれらは、プロフェッショナルの中に抱え込むものという視点があり、あくまでも、コントロールされる対象だったはず。だけどONJOと音遊びの会のセッションは、音遊びの会の面子が放つ音を尊重し、それを活かすための演奏が行われるように見える。









大友良英 『MUSICS』