流れ

昨夜は今年17本目のライブ観賞。音楽実験室な新世界で、花田裕之の『流れ』。このライブは住処近くのROCKERROOMで見ると決めているのだけど、今年も早々にあったそれ、カップリングだったので、悩んだ挙句行かなかった。したら、新世界で椎野恭一を加えた形で『流れ』って、これは、禁を破る理由として十分だった。
花田の歌声とエレキなギター、椎野のドラム。各セットの終わりとアンコールには、遊びに来たという、赤い髪の女の子が、ボトルネックなギターで加わる。花田は座っていたけれど、要するに、弾き語りな『流れ』ではなかった。殆どの客が座っている中、遅く来たのでという勝手な理由をつけて、立ったまま見る事が出来たのは、オレとしてはよかった。
今日はこれぐらいでいいな。これぐらい書いとけば、自分では、色々思い出せる。
今日は、あまり何かを見ずに、なんとなく1年前の記憶を引き出してみたり、1年前と、そこから当分の自分のログを読み返してみたりした。1年前のあの時、もしかしたら死ぬのかもなって思った。自分が死ぬかも知れないって思ったのは2度目だった。1度目は中学な頃の事なので、そう書くとナイーヴな理由だった様に見えるかもしれないけれど、それは違う。まあそれが何かまでこんなところに書く必要は無いのだけど、それ以来、自分が死ぬかも知れないと思うハッキリとした時間があの時だった。職場にいたのだけど、まあとにかく、死ぬにしてもここでこの人らと死ぬのはイヤだなって、考えた。静寂のライブを見る予定だった日で、それが延期になり、歩いて帰る時、iPodで静寂のアルバムを聴きながら帰ったんだった。今それを思い出して、延期されたライブで貰ったCD-Rを初めて再生している。帰ってきて自分の住処の惨状にボーっとして、なんとか片付けて、でも眠れず、TVの情報は深刻が増すばかりで苦しくて、ネットでサッカーを見た。1年前はそんな日だった。
政府から企業に今日の14:46は黙祷をするように指導が来ていて、それを社内通知で見て、なんか、オマエ等にそんなこと強要されたくないと思ったけど、14:46には目を瞑った。祈るという、わざとらしいことは出来なくて、とりあえず考えた。いろんな事、死ぬという色んな事を考えた。考えて、犠牲者の人達に、安らかに、という言葉しか浮かばなかった。
さっきフライングなゴミ捨ての為に外に出て、とりあえず今日の写真を撮ってみた。

この写真に意味は無い。全く持って、意味は無い。けど、1年前のこの時間に同じ場所から写真を撮っていれば、この中には大勢の歩行者が写っていたはず。
Microphone Pagerの「病む街」は、阪神淡路の震災をうけて作られた曲で、それを改めて聴くと、そこで歌われていることが、今も全くあてはまる事に、なんかイヤになる。「地震(多分自身とのダブル)に負けず イジメに負けず」という言葉は、今、モノ凄く強く響く人達がいるよな。でも「数多くの死者に手を合わせては 生き抜こう地球丸い内は」って、言葉が用意されている事にホッとする。
Youtubeでその「病む街」を聴いて、前も張ったけど今回も貼ろうかと思ったけど、関連として表示されていたこっち、が、気分。