鬼太郎が見た玉砕

音楽ネタにかこつけて他のネタを取り出すのは時々やっているけれど、今回もそういう事。だけどかなり鬱陶しいと思うので、追記として書きます。思った事は書いておきたいだけなので、オレの鬱陶しいのが苦手な人は追記は見ないほうがいいです。



大分前に放送された『鬼太郎が見た玉砕』、録画しっぱなしで見ることを避けていたけれど、GWという昭和のにおいがするイマイチなネーミングだけど安っぽい平和な感じのこの時期に、あえて見てみる事にした。

大友良英が音楽を担当したという事がオレのがこのドラマを録画した理由。映画とかドラマの為に大友の作る音は総じて同じ作風で、朴訥としたテーマと、優しい音が奏でられる。この『鬼太郎が見た玉砕』でも、戦闘シーンの表現以外では、やはりそういうものだった。




ゲゲゲの鬼太郎』を書いた水木しげるが、兵士として太平洋戦争で自身の体験を『総員玉砕せよ!』という漫画にし、それをドラマ化したのが『鬼太郎が見た玉砕』。オレの出身の関係上、戦争をテーマにしたものは映画やドラマ、舞台など、幼い頃から多々目にしてきた。オレの両親は戦時中は子供だったので兵士になってはいないけれど、その頃の記憶は何度も耳にしてきたし、肉体的に受けた傷も目にしている。そういう経験があるからか、このドラマを見て大きく衝撃を受ける事はなかった。だけど、日本人で戦争を体験した人たちは現実的に数が減ってきている。彼らが伝えたい事、或いは、伝えなければいけない事が取り上げられる事が少なくなってきているように思える昨今を考えれば、この『鬼太郎が見た玉砕』が放送された事に意義を見つけることが出来る。

今の時代に生きるものから見れば「おかしい」と思えるような事がまかり通るのが戦争で、それはそういう意識はあっても、実際に戦争という場所に巻き込まれてしまえば、非常識を常識に置き換えてしまう事は、アメリカが近年起こしている戦争の報道からわかる。それから気付くのは、もし戦争に巻き込まれてしまえば、戦争だからといってやってはいけないと思っていた事をやってしまってもいいという気持ちに変化してしまうという危険性。だからやってはいけない事をしない為に、戦争という場所を作り出さないという事が重要なはずだけど、現実的には日本は戦争に加担している。

『鬼太郎が見た玉砕』を見ていて、アメリカの戦争映画が反戦をテーマに持ったものであっても、そこにオレ達はリアリティを感じていないと思った。物語としてしか捉えられず、深く引きずるようなものはこれまでに無かった。『鬼太郎が見た玉砕』は、記憶の変化があったとしても、そこにはハリウッドが描くものより罪悪感を見ることが出来る。その罪悪感というものがオレの最も指摘したい部分で、兵士として戦争に関わったものは直接誰かを殺めたか、或いはそれに大きく加担したはずで、だからオレは彼らに対してあまり同情は無い。オレもその時代の人間ならば、多分同じように全く罪の無い人でも殺しただろう(罪のある人は殺してもいいという意味では無い)。だけど「戦争に行かされた被害者」という視点は、あまりにも都合がいいと思う。でも、巻き込まなければ、そういう経験をせずに済んだはずだし、やはりそういう面で彼らも被害者であるという考えも残ってしまう。だから、彼らに罪を問う気にはなれないし、全くそういう立場でもないけれど、だけど、まだまだ伝えるべき事があるはず。それをしないから、日本という国は戦争に加担していると思う。