阿部薫

自分のブログのバックアップを見てみると、何気に高柳昌行の事を書いているものが多い。そうなるとまるでオレは高柳ファンのように思えるかもしれないし、実際そういう部分はあるのだけど、よくよく考えてみると、実際にはそんなに高柳というミュージシャンが気に入っているわけではない事を思い出す。何を今更かもしれないけれど、元々はそうだという事。高柳の音を聴いたキッカケは『Lonely Woman』で、これは高柳というフリーのギタリストが、あの「Lonely Woman」をソロで演奏したものが含まれているという事で手にした。この場合フリーのギタリストというところが重要で、そのギターが誰であろうが余り関係なかった。但し、その頃には一応高柳の名前は知っていて、それは阿部薫経由で知った名前だった。阿部薫という男、今ではCDもそれなりに手に入りやすい状況だし、どういう人物かなんて事も簡単に知ることが出来る。だけどオレがジャズを聴きだして、フリージャズに興味が移って、そこから阿部の音を聴くまでは阿部の事を知る機会は無かった。

田舎を離れた最初の二年間ぐらいは実は都内に住んでいたわけじゃなくて、川崎市高津区というところに住んでいた。駅は梶ヶ谷という東急田園都市線の各駅停車しかとまらないところ。そこから最も近い開けた場所は溝の口という事になり、その頃はCDも溝の口で結構買ったりしている。その溝の口イトーヨーカドー新星堂があり、そこを使う事も多かった。そこでたまたま手にしたCDが阿部薫の『Last Date』。レーベルはDIWというDisk Unionの系列。そのDIWは硬派なモノをリリースするのが得意で、オレ自身は特にDavid Murray関係のリリースされたものを多く手にしていた。そういう事もあり、DIWというレーベルにはそこからリリースされるという事だけである程度の信頼があったのだけど、阿部薫という聞いた事の無い名前の日本人のサックス吹きのCDは、なんとなく日本人のものがDIWからリリースされるという事に違和感を持ったけれど、逆にそれが興味を引き、購入してしまった。

『Last Date』は、オレにフリージャズではなく、フリー・インプロ的な演奏を聴く事の土台を作った。それは音が鳴らない時間というものを、このアルバムで味わったからで、それまでオレが耳にしていたフリージャズの多くは、Coltraneシンドロームの様に、空間を音で塗りつぶすようなものが殆どだった。だけど『Last Date』は違っていて、音が鳴らない事を含めて表現している。勿論、遡れば阿部以前にもそういうものはあったのだけど、とにかく『Last Date』がオレにそれを吹き込んだ。

『Last Date』は阿部薫のCDとして初めてリリースされたもので、しかもいわゆる未発表音源。当然、正式に発表された音源のリリースが待ち遠しい状態だったけれど、なかなかそういう状況も生まれない中、DIWはさらに未発表音源の『Solo Live at GAYA』シリーズを発表する。全部で10枚にもなるこの音を少しずつ聴きながら、オレは泥沼に嵌った。但し『Last Date』や『Live at GAYA』の世評はそれは決して好意的ではなかった。どちらも晩年の阿部の演奏である事から、その初期の演奏に比べてイマジネーションが足りないだの、破壊力が足りないだの、そういう事が言われていたし、今でもその評価は変わらないと思う。だけどオレは腑に落ちない。その後初期から中期の作品がリリースされ、当然それらを手に入れて聴いたけれど、オレには晩年の阿部と初期の阿部の音のベクトルに違いがあるだけとしか思えない。のた打ち回る様な、危ない音を連発していた頃の音も勿論魅力的だけど、晩年に聴かれる音はそれらを通過して来たものの音という言い方が出来るはず。阿部に対する評価が、フリーの側面からの過激な演奏だけに限定したいのならばそれもいいのだろうけど、現在の多様化された音楽という枠の中で、それだけの側面で阿部の音を捉えなくてはいけないのだろうか? 



阿部薫の事を書きたいだけ書くと、恐らくこのブログで最も長い投稿になる。それも多くは観念的な事の連発になる。ここまでで既にそういう状況だし。だからとりあえずこの辺でやめておくけれど、突然思い立って阿部の事を書いたのではなく、9/9という日付が、阿部の命日であるという事からの投稿。こういう日は大人しく阿部の音を聴く。オレは当然『Last Date』や『Solo Live at Gaya』を聴くけれど、評価の高い『Mort a Credit』でも何でも、アヴァンとかフリーとかそういう言葉のつく音が好きならば、一度は耳にして欲しい。それも出来れば、阿部薫の生涯を知らない状態で耳にして欲しいと思う。それを知らないほうが、阿部の音を純粋に聴き取れるはず。オレとしては珍しく、この人はこういう人という説明を端折ってるのはその為。阿部の生涯は余りにも物語的なので、それを先に知ってしまうと必要以上の潜入感が入り込んでしまう事は避けにくい。