時事ネタ

困ったな、と思った。芸能ニュースみたいなものを読んでのオレの感想を書くのはブログの趣旨からずれるのだけど、オレが町田町蔵のファンである事と実はBoowyのファンでもあった事を知っている人からすれば、興味深いネタらしい。

また昔話になるけれど、オレが高校生なガキこの頃、多分オレの周囲にいた奴らはオレがBoowyファンである事を皆知ってたはず。オレと同じぐらいBoowyファンの奴もいなかったし。Boowyもよくあるパターンで『Just a Hero』のヒットで知る事になったのだけど、『Just a Hero』の退廃的な感じとメロディアスな楽曲のバランスは、ギリギリ歌謡が付かないロックだったと思う。非常に危ういバンドだったけれど、結局最後までギリギリロックだったとオレは思っている。残念ながら『Just a Hero』が売れている時には沖縄までコンサートには来なくて、ラジオ局の主催でフィルム・コンサートみたいな事をやっていたけれどそれの集客すらも散々という、かなり沖縄では支持されないバンドでもあった。それでも『Psychopath』の時には沖縄でもコンサートを行ったのだけど、その場所が那覇市民会館というホールで、1階と2階の席をあわせて1200ぐらいのキャパなのに、2階には全然人がいなかった。オレはというと、確か1階中央の前から3列目ぐらいというとんでもない良席。ここでWikipediaBoowyの項を見て欲しいのだけど、そこに『Just a Hero』ツアーの時に沖縄では観客が盛り上がらず氷室がキレたと書いてあるのはオレの記憶から行けば間違いで、『Just a Hero』の時には沖縄には来ていないはずだし、そのライブが中止になりそうになったというエピソードはオレが見たライブの事のはず。というのも、観客が盛り上がらないので氷室が切れたという噂は当時から間違った情報として流れていて、オレがBoowyのライブを見てきた話をすると、「盛り上がらなかったんだろ?」と言ってきた。でも、その盛り上がらなかったという噂も間違いのはず。確かにライブが中止になりそうな場面はあった。それはハッキリ覚えている。何故そうなったか?は、オレも加担していた。だから覚えている。まあ、オレより後方の客席がどうだったのかは知らないけれど、前の方は思いっきり盛り上がった。アンコールだったか本編の終盤だったか思えていないけれど、氷室がステージから下りてフラットな位置で歌った時、オレ等は席を離れて前の方に詰め寄った。それで危険な状態になり、一旦バンドが引っ込み、主催者側から「危険だからやめろ、アホ、ボケ、カス!! 中止になるぞ? どうすんだ? コラ!!」とアナウンスされ、オレ等は「ごめんなさい」な態度で席に戻った・・・。という事で、オレはWikipediaをよく使うし参考にしているけれど、こうやって間違った情報が堂々と掲載されていても、事実を知らない立場では間違った情報を鵜呑みにしてしまうという危険性を再確認。

話を戻すと、まあとにかくBoowyファンだったオレはその後の氷室や布袋のソロもフォローしたのだけど、結局氷室は『Missing Piece』あたり、布袋は『King & Queen』までで、その後は興味の対象から外れた(但し『Samurai Fiction』という映画の布袋はよかった / この映画は凄く面白いのでお暇な時にお試し下さい)。



町蔵は沖縄にいた頃には名前しか知らず、INUの音なんて手に入るわけも無く、まあ、どうしても聴きたいと思うようなものでもなかったので、その頃はあまり気に留めてなかった。だけど東京に来て色んな連中と知り合ったりしているときに、とあるパンクな奴と意気投合、そいつと色んな話をしていたりした。そしてとある時、どこかのCDショップでお互いにこれがよかっただのダメだっただの、他愛も無い話をしながらウロウロしてたら、町田町蔵の『腹ふり』をみつけ、その連れが「これ聴いた? カッコいいよ」と言ったので、オレは「いや、聴いてない。まちだちょうぞうって聴いた事無い」って言ったらそいつは笑い出す。「は?」と思ったら、「なあ○○、これ、まちぞうって読むんだよ」と言われ、「え?、マジ?」なオレは恥ずかしいと思うよりも先に、それまで「ちょうぞう」と勝手に思っていた事が自分でもおかしくなった。そしてそれをキッカケに町蔵を聴く事になり、その『腹ふり』に思いっきり嵌った。それ以降、「町蔵がオレの兄」という冗談をよく使っているのだけど、町蔵の顔を知っているようなやつは「へえ、兄弟なのに似てないね。お兄さんはあんなに男前なのに・・・」等といってくれる。

『腹ふり』以降の町蔵のアルバムはどれもよく聴きこんだ。アルバム1曲目のインパクトという事では、町蔵のアルバムはどれも文句無しで、『腹ふり』の「イスラエル」、『駐車場のヨハネ』の「麦ライス、湯」、『どうにかなる』の「倖いラッキー」、『脳内シャッフル革命』の「ホストシャッフル」と、個人的にはそれぞれのアルバムのベストが1曲目の楽曲。さらにMM読者なオレは、偶然にも町蔵が作家として活動するきっかけになったともいえる『夫婦茶碗』をMMで読むことになるのだけど、やはりその独特の言い回しを気に入り、『くっすん大黒』が発刊されてからは作家としての町蔵も楽しんでいた。そしてその作家としての活動に比重が移る事によって町蔵は音楽活動を控える事になるのだけど、オレが一度だけ見る事の出来た町蔵のライブは、多分そういう意味で、本業歌手としての町蔵の最後のライブだったと思う(そのライブを見た日清パワーステーションも今は無い)。

作家としての町蔵も好きだったけど、やはり歌も歌って欲しかった。けど、作家としての活動を見ているのも楽しいかもと思い、出版された本は全部読んでいた。でもとある頃から「J文学」なるわけのわからない言葉が出てきて、そこに町蔵がカテゴライズされ、なんとなくイヤな気分になっていった。そんな頃、町蔵がその音楽活動の集大成とも言える『町田康全歌詩集 1977〜1997』を出版。知り合いが新宿で仕事しているオレに、「ルミネのABCで『町田康全歌詩集 1977〜1997』を買えば、サイン会に参加できるらしい」と教えてくれて、オレはABCで『町田康全歌詩集 1977〜1997』を購入。300番台というサイン会に参加する為の整理券をゲット。そして当日、オレにサイン会のことを教えてくれた知り合いは自分は本を買っていないにもかかわらずその場に来ていて、「なにしてんの?」と驚くオレに、「○○の男前なお兄さんを一目見てみたいと思った」とほざき、まだまだ並ぶ事にもならないオレと一緒に町蔵が出てくるのを待っていた。そして町蔵登場。「やっぱカッコいいね」と言い残し、順番が来るまでまだまだで時間をもてあましているオレを気にも留めず、「じゃ、用があるから」と去って行った。仕方ないのでABCをウロウロし、やっと階段で待機する順番になりそこで待っていると、係員が来て自分の名前を整理券の裏に書けという。サインを貰う時にそれを町蔵に差し出し、名前を書いてもらう事になるとの事。そして次がオレの番という状態のとき、サインを書いてもらう本と整理券を係員に渡す。いよいよオレの順番、係員が本を開き町蔵の前に差し出す。町蔵がサインを書いてくれるのを間近で見て、そして本を貰って握手してもらう。短い時間なわけだけど、まあ、ファンとしてはやはり嬉しいというのが正直なところ。そしてウチに帰りサインしてもらった本を開く。なんかおかしい・・・。別に名前が間違っているわけじゃないけれど、何か違和感が・・・。と思って気付く。サインの上下が逆になっていた・・・。これって別に町蔵のミスじゃなくて、本を開いて渡した係員がボケだったわけだけど、しっかし・・・。と思っていたのだけど、まあ、これはこれでありだろとすぐに気を取り直し、オチのある話としてオレのネタになっている。

そして結局、『土間の四十八滝』あたりまででオレは町蔵の新しい本を読むことが無くって現在に至っている。それはオレがあまり小説の様なものを読まなくなるタイミングにもなり、町蔵の本の内容がどうのこうのという事では無い。そして町蔵の音楽活動はどんどん小さくなり、佐藤タイジとの『心のユニット』以降は何かリリースされる事も無かった為、町蔵の新しい何かに触れる事はなくなっていた。

しっかし意味無く長い投稿になった。しかもまだ続く・・・。お許し下さい。

メジャーな日本人のミュージシャンの動向に疎くなったので、町蔵が布袋に詞を提供したり、ライブにゲストで参加していた事など知る由も無かった。そんな状態であのニュース。マジで「は?」と思った。そのニュースを教えてくれた知り合いは「○○的にどうなの?」と笑って聞いてきたけど、オレとしては事実関係がよくわからない状態では特に何もいう事はなかった。警察沙汰になったという事が注目を浴びる結果になったようだけど、そういう事はオレ的には特に何も思わない。一つだけ思うのは、人を殴ったのならそれなりの責任は取るべき。

ネットでこの件の意見を色々見ていると、「パンクのくせに国家権力に・・・」という言葉が気になった。そういうのはパンク=アナーキーという図式から来ているのだと思うけれど、オレの考えではパンクというのはそういう事ではない。アナーキーというのはSex PistolsThe Clash等のロンドンでのシーンからの影響だろうけれど、その源流のNYのパンクはアナーキーという言葉で片付けるものではなかったはず。パンクというものが伝わる時に、それをロンドンの解釈ではアナーキーが加わったのだと思う。もちろん日本のパンクというのはそのロンドンの影響から始まったと思うけれど、そこに日本なりの解釈があって、それは直訳でのアナーキーとは違ったものになったんじゃないだろうか? その結果の日本のパンクな連中の言葉を聞いてみれば、オレの思うこともあながち外れていないはず。

じゃあ、パンクとは何か?と言えば、何かに対するアンチなのだと思う。それが国家であろうがシステムであろうが歌謡曲であろうが、どんなものに対してでもアンチの姿勢を見せる。無理してでも虚勢を張って見せる。そういう事がパンクなんじゃないだろうか? 例えばThe Pop Groupはロックに対するアンチで、自らは「ロックじゃなければ何でも良かった」と言っているみたいだけど、Pop Groupを聴けばロックだと思うしパンクだと感じる。それはPop Groupの姿勢がもたらすもので、そういうところにパンクの本質のようなものが見え隠れすると思う。

それと、町蔵はパンク歌手だったけれど、それはパンク歌手というところで遊んでいたという事でもある。なぜなら、(またMMがらみになるけれど)MMの増刊号で98年に発刊された『Nu Senseitions』というムックがあったのだけど、それは1978−1998という間のオルタナティブな日本のロックを検証したもので、その中にベスト10なアルバムを選ぶという項がある。そこで近藤康太郎というライターが町蔵と話した時に「別に音楽じゃなくてもよかった、浪曲師でも全然よかった」という話を聞いたという事と、素の町蔵をよく知るJOJO広重が「人前で何かやるって意味では一緒じゃないですか。それが当時はたまたまパンクだった」という事を言っていて、それが町蔵という人物を物語っていると思う。

布袋にもフォローを。ぶっちゃけ、『Guitarhythm』シリーズ以降の布袋の音には興味が無いのだけど、オレにとっては「Lonely Wild」という曲はかなり重要。そこで歌われている言葉はあの頃かなり共感した。書いちゃうとまずいけど書いてみる。

「きっといつの日か孤独とも愛し合える 影さえ捨てたやつらには判るはずのない祈り きっといつの日か自分を超えられると 涙が出るほど痛いPunk 聴くたびに信じられる」

最初のサビの部分なのだけど、この歌を聴いた時にはオレは一生布袋の歌を聴き続けるとさえ思った。そんな歌を歌ってくれた人なので、キッチリ謝罪して、責任を取って、もう一度オレが聴きたくなるような歌を書いて欲しい。



※めんどくさいので、康という名前は使わず町蔵に統一しました。オレは人に町蔵の話をする時に「今は町田康だけど元々町蔵」と普段から言っているので。