Terry Riley

折角コンサートを見たので、この機会にいくらかその作品を聴き返してみた。そして、何故オレにとってRileyは、Steve ReichPhilip Glassの様に、何度も聴き返してしまうという魅力を感じなかったのか、それが少しわかった。



『In C』を聴く。これは、ミニマル音楽の古典的な作品として有名な作品で、ミニマル音楽の話が出る時、必ずと言っていいぐらい名前の挙がる曲(アルバム)。オレはこれを聴いて、少し牧歌的なものを感じていた。

例えばReichの作品を聴く。その音楽の印象は、ミニマル的な構造という事は置いておくと、マリンバと弦楽器を重厚に使った音が特徴的。その弦の鳴りは擦弦楽器特有の音で、この音が古典的なクラシックとは違う構造で鳴り響くと、その響きに圧倒される。

続けてGlassの作品を聴く。彼の音の印象は、やはりあのオルガンの音。

腰の強いオルガンの音で繰り返されるフレーズは、Reichとは違う感覚。

この二人の音の意匠の違いは、Reichの音が上半身に響く音なのに対し、Glassの音は、下半身にくる音という事。この違いは、どちらがいいとか苦手という事も無く、上手い具合にオレのなかで同居している。あえて言えば、外を出歩く時、iPodに入れておくのはGlassの方がハマる。そしてReilyは、この二人の音に比べて、今ひとつその個性が掴めなかった。

『In C』における牧歌的な感覚は、ReichやGlassのシリアスな音に比べて、弱々しいイメージさえあった。ところが『A Rainbow in Curved Air』は、シンセサイザーの音を巧みに使っていて、ここではラジカルな音も聴こえる。このまとまりの無さが、オレの中で上手い事噛みあわず、あまり縁の無い状態が続いていた。加えるなら、ReichやGlassがしっかりとしたディスコグラフィー的な聴き方が出来るのに対し、Rileyは、過去の作品が体系的にどうなっているのかも掴めず、それがわかり難さに拍車をかけていたと思う。それでもそれ以外のいくつかの作品を手に入れ、それを聴くと、RileyもReichと同じように、テープを使った作曲に近いものがキャリアの最初期に確認でき、それがミニマル音楽にとって、いくらかの重要な要素である事を提示している。録音された音を使って、それを作曲の一面に取り入れるといった手法、それは多分John Cage等の多種の実験から引き継がれたものだと思うけど、それをこの二人が着目していたという事は面白い話だと思う。特にReichは、二つのテープ装置を使い、同じフレーズの入ったテープを同時に鳴らしながらも、再生装置個体の問題によって、音のズレが生じるところに着目し、それを一つの作品として提示している(『Early Works』の「Come Out」、「It's Gonna Rain」参照)。これを聴けば、Reichのミニマル音楽は、この時点で一つの骨格を成したという事に気付く。もちろんテープ装置だけでその音楽のスタイルを確立したわけではなく、アフリカのリズムを研究し、その成果が『Drumming』として発表されているし、その後もガムランなどの民族音楽からヒントを得て、さらにそのスタイルの追求を行った。こういうReichの姿勢を考えると、その音を知らなければReichの音はアグレッシブなものか、民族音楽的な音を想像してしまうかもしれないけれど、Reichの作品は何処を切ってもクラシック的な印象が強い。それはGlassやRileyと違って、Reichは感覚的に行動したのではなく、かなりアカデミックに歩んできたのではないかと、そういう想像が働く。Glassの音は、脅迫的なフレーズの繰り返しが圧倒的。その画一的なフレーズの繰り返しには、音の揺らぎが感じられない為、息苦しいような展開もある。それがGlassの音に反応できるかどうかの境目じゃないだろうか。この独特のグルーヴはクラシックの文脈の音ではなく、Glassの感覚的なところから出てくる音だと思う。メカニカルな感覚さえあるこのグルーヴに一旦嵌ると、延々とGlassの音を聴き続けたくなる。但しGlassにも欠点があって、それは作品の出来のばらつき。ミニマルな音を使っている時は余りハズレは無いのだけれど、違う展開のものはあまり積極的に聴く気にならない。




話を元に戻すと、『In C』には、ReichやGlassの作品にある重厚な音と言うものが感じられない。上物(しかも鳴り物)だけでフレーズを繰り返している印象が強くて、それがオレの印象に、悪い作用を及ぼしていた。Rileyは『In C』以後、インドの音楽(ラーガ)などに影響を受けるのだけど、『In C』にもインド的な上物の音が感じられて、この頃から既にRileyは、クラシック的な範疇から外れようとしていたのだろう。そして多分、Rileyはクラシックの文脈で聴く必要は無いのだろう。そこに当てはめてしまう方がわかりやすいのかもしれないけれど、その音を聴くときは、そういう概念を取り払って聴いてみれば、ReichやGlassの音より、より多くの情報量が含まれている事に気付く。