尾崎豊

尾崎豊の命日。なので、2年ぶりに、その事でログ。
手元にあるのは『街路樹』だけなので、それ以外をYouTubeで聴いた。この人に対する感情は、尾崎と同い年の45歳〜大体そのマイナス10歳ぐらいまでの連中とそれ以外とでは、圧倒的に違ってしまうと思う。この10年ほどの幅の連中は尾崎が存命時にその歌に触れて、その声と言葉が与田剛の剛速球みたいに思った。と、思う。後追いの連中には悪いけど、あの呆けた時代に尾崎は圧倒的だった。

これは尾崎の、唯一の生放送でのTV出演。司会者は勿論、その後ろにいる当時売れていた連中と尾崎の違い。尾崎と同世代からその下のオレ等の様な連中は、この違和感を抱えた歌手に惹き込まれるのは当たり前だった。他と尾崎は違いすぎていた。近田春夫が(羨ましくて)揶揄したルックス、その顔を滑稽な位に歪めて歌う姿。「十代の教祖」なんてくだらない呼称や、「何もわからなガキがいきがった歌」とか言っている連中は間違っていた。別にオレ等は尾崎を崇めて奉っていたわけじゃない。違うんだよな。わかっていないオッサン連中の言葉はくだらなかった。「十七歳の地図」とか「ダンスホール」とか「坂の下に見えたあの街に」とか聴けば、尾崎が単に若さゆえの反逆的な歌の歌い手じゃないことぐらいオッサンでもわかる。「卒業」という曲だけでわかったつもりになっていたくだらない連中が結構居た。知らんなら黙ってろ。って思った。
「核」という曲がある。当時を考えれば、一見、核兵器についての歌だと思ってしまう。オレもそのシングルがリリースされて聴くまでは、そのタイトルから思い浮かんだのはそういう事を歌ったものだと思っていた。けど、この「核」は、核融合の事ではなく、自分自身の核を歌っている。ラブソングだと思う。それを、9分を超える楽曲にしてしまった。シングルでリリースされた「核」は、録音物としての体裁としては異例。その長さ、じゃなくて、尾崎の歌が、そういう範疇のものじゃなかった。ライブバージョンですら、ここまで感情むき出しの録音は珍しい。そのあまりにもな歌、を、当時何度も何度も繰り返した。

その後、『街路樹』に収められたバージョンはこのシングルよりは押さえられたモノになっていて、それは良くも悪くも、だと思う。けどこのシングルの「核」は、John ColtranePeter Brotzmannの咆哮と同質なモノを、今、改めて思う。
ホント、尾崎豊は、カッコのつけ方が、不器用な男だった。でも、だから結局忘れられない。あー、クソ。ホント、この男がいればどんな言葉を発したのか。そういう事を考えさせる今の状況への苛立ちは益々増す。