ECD

たまたま見つけたニュース。ECDの子供が生まれたというニュース。驚いた。子供が生まれたことよりも、いつの間にか結婚してた事に驚いた。しかも、相手は24歳も年下の子・・・。やるな、ECD

ECDがバイトしながら音楽している事はECDの事を知ってるものにはよく知られている話で、その事をその著書の感想のログでここでも書いている(はず)。それは苦労する事になったはずだけど、やり方は自分の思うままで、とりあえずなんとかそれを続けている状況。そうやって活動することが出来るというのは、一つの方向を示していると思う。

今頃のログになってしまったけれど、2月にリリースされた新作『Fun Club』は、今のヒップホップのシーンからはずれている。『Fun Club』に限らず、自主制作に戻ってからのECDの作品はそういうモノになった。前作『Crystalvoyager』に比べてエレクトロ的ではないという説明があるけれど、実際にはビートの扱いはその路線に当て嵌まる。サンプリングのネタに歌謡曲の知識が豊富なECDならではのものがあり、これは他の人には真似の出来ない感覚。とても金のかかったものとは思えないこれらのトラックは、音楽を作る基本としてアイディアだけが用意されている。エキセントリックな「翼を下さい」や「Ghost」のようなトラックを作れる人は、今の日本のヒップホップなシーンにはECD以外には考えにくい。

このアルバムに限らず、ECDがラップする事柄は、ラップならではのビートに合わせたリズミカルな言葉の羅列と、自分の足元だけを見つめての言葉。どんな歌であれ、共感を覚えるか否かはそれぞれだけど、ここからの視点がある事を忘れると、色んなものが目に入らなくなると思える。









ECD 『Fun Club』




MMがパフュームで上手い事やろうとしているのを見て、なんだか複雑な気持ち。今の編集長に変わってからのMMには、なんとなくポリシーみたいなものが見当たらなくなっている。

そのパフュームってのを持ち上げるのは勝手だと思うのだけど、こういうモノをやたらと賞賛する輩が気になる。自分は色んなものを聴いているから、こういう音楽を受け入れることが出来る、とでも言いたげに見える。

という事で、オレも自分のそういう面を出してみる。

今年ヒットしたチャートの中で、パフュームは個人的にはどうでもいいのだけど、青山テルマの「そばにいるね」はなかなか良かった。あの、抑えた歌い方が好みで、歌詞の中には男殺しな一節もあり、掴まれる部分がある。そしてこの曲は、中谷美紀の「砂の果実」にそっくりだと思った。曲としてどこがという話は長くなるので端折るけれど、どちらも「ここがなければ・・・」という部分がある。「そばにいるね」はSouljaのラップ。歌の意味としては必要なのだろうけど、あの声ともっさりしたラップは頂けない。「砂の果実」はギターソロ。あのダサすぎるギターソロには閉口。ちなみに「砂の果実」のPVの中谷美紀がどうしようもなく美しい。この1曲のPVの為にDVDを買ってもいいと思う。

「そばにいるね」がラップ担当のSouljaの曲へのアンサーソングと知った時に、加藤ミリヤの「ディア ロンリーガール」がECDの「ECDのロンリー・ガール」へのアンサーソングだった事を思い出した。加藤ミリヤのその曲が売れる事によって、多少ECDの懐が潤うのかと思った。だけど「ECDのロンリー・ガール」は実は元ネタがあり、それのカバーでもある。そして加藤ミリヤの「ディア ロンリーガール」を見ると、曲のクレジットには本人に加えてECDの元ネタである人達の名前はあっても、ECDの名前は無い。これって、ECDのトラックへのアンサーソングなのに、ECDには直接的な収入にはつながらないのだろうか?と考えた事があった。実際にはどうなのかわからないけれど、もしそうだとしたら、なんとなく腑に落ちない。何かがおかしいように思う。

ECDのロンリー・ガール」は、体を使ってあぶく銭を手に入れる少女達への啓発と同時に、それを利用する恥知らずな大人達への歌でもある。ヒップホップは強面な連中が自分がいかに凄いかと誇示しているか、或いは、流行り歌の一つとしてヒットチャートものに組み込まれた軽薄なものとしてしか捉えきれない人がよくいるけれど、そういうものばかりじゃなくて、トピカル的には今、最も有効な手段の音楽だという事をこの曲は示している。もう10年前の曲だけど、この曲で歌われている事は今でもそこら中。