サウンド・アナトミア

今日、ピットインで行われたはずの『サウンド・アナトミア』の出版記念ライブ。大友良英のブログで集客を煽っていたので行ってみようかと思わないでもなかったけれど、少々内輪ノリの雰囲気があり、スルーしてみた。本当は中村としまるがピットインで演奏なんてのは興味があったのだけど、今回はいいか、と。

なので今日はタイミングを合わせて『サウンド・アナトミア』の感想。実は2月ぐらいに一応読み終わっていた。以下はその時に書いてあったもので、本当はもう少し『サウンド・アナトミア』という本を咀嚼してから書き換えようかと思って下書きのままだったのだけど、結局そういう作業もめんどくさくなったのでそのまま。



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年末ぐらいからか、それぐらいからタワレコで何度も手にしては戻すという事していた本があって、それを2週間ほど前に結局購入。その本は『サウンド・アナトミア』という本で、音楽評論家の北里義之の書いた本。Mixiの日記かなんかで日々アップされていたものをまとめたモノらしい。それが紙媒体のメディアとして日の目を見ることになった。オレはMixiには入っていないのでその日記を見ることは出来なかったから、こうなる事でやっと目にする事が出来た。だけど、なかなか購入に踏み切れなかった理由は、手にしてパラパラめくって、あまり面白そうとは思えなかったからで、さらにこれを読む為には幾らかの基礎知識が無ければいけないと言う事も気付いていた。『サウンド・アナトミア』を読むために必要なテキストの大谷能生著書の『まずしい音楽』もすぐ近くにおいてあった。それもめくってみたけれど、この本のタイトルの狙いが気に入らず、これは購入していない。さらに、高柳昌行の『汎音楽論集』や、勿論その本だけではなく高柳のいくつかの音源、さらに佐々木敦の書いた本やSachiko Mと中村としまるの音を知っていなければいけない。この中で佐々木の書いた著書をオレは知らないけれど、彼の書いた文章はいくらか目にしているし、なんとなくそのスタンスもわかる。大谷という人は全然知らないけれど、そこまではいいか。という状態で手にした『サウンド・アナトミア』。

まず、高柳著書にあたる『汎音楽論集』のアンサー本というか、解説本的な項目が続く。オレは『汎音楽論集』は面白いと思わなかった。それについては1年ほど前に投稿しているので割愛するけれど、まあ、洞察力の無いオレとは全く異なった視点からの解説と考察を読むことが出来る。特にアクション・ダイレクトという演奏形態への言及が多いのだけど、その現場やそこに至るまでの高柳の音をリアルに感じてきたもの証言としてに捉えることが出来る。それによって『汎音楽論集』という本、或いは高柳の音に対する捉え方も少し変化してきた。

そして、Sachiko Mと中村としまるという固有名詞を何度も出す事によっての音響派と呼ばれる音楽について、大谷や佐々木との考え方の違い、それにまつわるちょっとした論争への回答や解説みたいなものが展開されている。この部分は少し厄介で、なぜかというと、高柳の音は、既に高柳自身によって発せられる事はなくなってしまっているため、それへの言及は事実から紐解く事によって場違いな事を発することは無いと思われる。だけどSachiko Mも中村としまるも現在のミュージシャンであり、まだまだ音楽の前衛的な立場であり、それが一つの結論や結果を産むまでには至っていないとオレは思う(現象は作っているけれど)。そういう音に対して、北里も大谷も佐々木も、持論を強固する事に躍起になっていると感じ取れてしまう部分がある。それは読者の聴き方の強制につながり、可能性みたいなものを評論する立場の人間が決めてしまうような気がしてならない。

そして再度、高柳についての記述が提出されてこの本は終わる。全体的に他の本の引用が多く、そこに読みづらさをオレは感じた。さらに言えば、必要なテキストのところであえて書かなかったけれど、やたらとミシェル・フーコーという哲学者の論理を取り込んでの話が目に付く。オレは哲学の本というものを殆ど読んでいないし、読んでみたいと言う気持ちも現時点では無い。だから、フーコーの話が出てくると小難しさが強調されるし、読んでいるのが辛くなる。また、北里本人の文章や、大谷や佐々木の文章も、なにか哲学というか宗教というか文学というか、そういうところで使われるものを脚色に使っているような感じがあって、なんだか古臭い感じを受けてしまう。論じると言う事が、結局皆同じ様な文体を使っての展開になっているように見えて、誰が書いた言葉かという事を意識しなければ、誰が書いた言葉かという事がわからなくなったりする。勿論これはオレの浅学のせいだけど、こういうやりとりが音楽評論の現場なのだとしたら、あまり面白いものではない。紹介するものは面白くないけれど、これならばジャズ喫茶メグのオーナーの書いた文章の方が楽しい。

だけど。この著者の文章の書き方は、音楽評論というものを、他の評論というところと同じぐらいの地位というか、そういうところにあるべきだという堅苦しさをあえて表しているようにも思える。そう思ったのは、著者が自身の母親の介護という視点からの文章も挿入されていて、その部分は文章にリズムがあり、読み進み易かったかれで、そこにもフーコーがどうのこうのという話も出てきてしまうけれど、自分の感情をストレートに出したと思われる言葉と内容に、他者が引きずり込まれるものが出ている。



オレの知性で読み進むことには少々難のあった本なのだけど、途中で止めたり投げ出したりしなかったのは、多分オレがここに書かれている固有名詞に興味があるからなのだと思う。それと、「よくわからない・・・」と思いながらも、それでも短時間で読み終えた。万人向けではないけれど、名前の出てきたミュージシャン、特に晩年の高柳に興味のある人には読みどころがあると思う。