Marisa Monte

昨日の投稿はわかりやすい伏線だったと自分で思う。Marisa Monte来日中にあの投稿は、オレの性格上、明らかにコンサートを見に行くという事。

オーチャードホールは相性悪いのだけど、東京はここでの2daysなので選択の余地無し。こういう場合、普段なら二日目にいくところだけど、実はチケット購入を完全に出遅れてしまい、両日を見比べてまだマトモなチケットが手に入れられそうなのは初日だったので、今回は初日をチョイス。そういえば先週、Eddi Readerをリキッドルームに見に行くつもりだったのに、『ミュージック from フィンランド』の帰りにタワレコによってウロウロしていたら、気が付くと開演時間の20:00になっていて見に行くのをあきらめたりしていて、このところ上手くいかないことが多い。

Marisaは土曜に名古屋でも公演があったらしく、その感想をネットで見ていて、半数以上がブラジル人だったという話に驚いたけれど、さすがに東京ではそんな事は無い。名古屋はブラジル人コミュニティーのある静岡から行った人が多かったのだろうか? それに、名古屋はZeppという事で、スタンディングメインなのに東京はクラシック向けコンサート・ホールという違いもあり、名古屋のような盛り上がりは期待できない。個人的にはあまり熱狂的に盛り上がられると疲れるけれど、でも、スタンディングの方が見やすいという気持ちもあった。

予定から20分ほど遅れて演奏が始まる。客席もステージも照明を落とし、真っ暗な状態。そんな中、メンバーが入場し、演奏が始まる。Marisaの歌声が聴こえてきて盛り上がるけれど、照明は落としたままで姿は見えない・・・。その1曲目が終わった時だったか、やっとステージに照明が点きMarisaの姿を確認。Marisaを含む総勢10人のメンバーのうち6人が前方に陣取り、後方にひな壇を置き、その上に4人のメンバー。その4人の中央にMarisaが座っている。Marisaは自らギター(或いはそのようなもの)を弾きながら歌う。そして、中盤に差し掛かるところで壇上から下り、マイクを手にとって歌う状況に変わる。Marisaは多少のパフォーマンスはしても、あまり派手に動き回るわけではない。だけどその、少しの体の動きが絵になる。時には観客に手を振る事や手拍子を促し、歌のコーラスに参加することを要請する場面もある。演奏された楽曲はもちろん『Infinito Particular』と『Universo Ao Meu Redor』からが多く、オレも予習のために最近よく聴いていたので、耳になじむし、それ以外もなんとなく聴き覚えがあり、言葉はわからなくても「歌モノ」の強さを再認識。本編のラス前の曲のMarisaの煽りで観客は総立ち状態(自分より後方は知らないけど、目に入るところは皆立ち上がってました)。そのままアンコールも立ったまま見ることが出来た。アンコールは2曲演奏。だけど名古屋公演の事前の情報により、アンコールが3曲あったことを知っていた人が多かったのか、結構粘ってさらにアンコールを要請。だけど残念ながらそれは実らず(その理由については中原仁氏のブログに書いてありました)。

普段見るライブがインストなものが多いので、やはりこのコンサートでもバックの音が気になった。オーチャードの音というのはあまり好みじゃなく、これまでもいい音だったと思うことはない。だけど昨夜は、なかなか良かったんじゃないかと思う。他の場所で同じ演奏を聴かなければ何ともいえないところだけど、ギターが2〜3、ベースとラッパとファゴットとチェロとヴァイオリンとドラムとキーボードがそれぞれ1ずつという構成で、当然全体的にアコースティックな音なのだけど、楽器の数の割には強すぎる音になるわけでもなく、緩やかな音圧だったと思う。まあそういう事も、Marisaの歌に完全に引き込まれてからあまり考えもしなかったけれど。




Marisaとは全く関係ないけれど、時事ネタ。かなりのニュースになったZardの人の逝去のニュースを見た人がオレに「オマエの性格なら、泣いてるファンとか見て笑うんだろ?」と言ってきて、ムッとした。確かにオレは、Zardというバンドだかユニットだかソロだかの音楽に興味は無い。だけどオレが興味が無いからと言って、その人が亡くなって悲しんでいる人を笑うなんて事はありえないし、何でそういう発想になるのかわからない。オレは多少、普通の人より音楽を聴きこんでいると思うし、今現在好むものも売れ線とは違う。だけど、だからと言って売れているものを好む人達や、それをやっている人達を卑下するつもりは無い。こんなのただの好みだろ? 何を好もうが好まなかろうが、それはそれぞれでしかないわけで、オレにとってBaileyが最高のミュージシャンだと思う事と、Zardが最高だと思う人と、その思い自体に違いは無いと思うし、マイナーなBaileyを好むオレの方が優れた耳を持っているなんて思ったことは無い。ただ、色んな音に多くの人が触れて、その結果、自分の好きなものを選ぶと言う状況が好ましいと思う気持ちはある。

まあ、何が言いたいのかよくわからないと思うけど、とりあえずこの事は色んな事の再確認の意味で書いてみた。Baileyが他界した時の自分の心境を思い出せば、今、Zardの人が亡くなった事で心を痛めている人の気持ちもわかるんだよ。

と、ここまで書いてみて、別の意味で思う事も追加。というのも、Zardの人が亡くなったというニュースによって、そのCDが急に売れ出したというところへのいやらしさは感じる。恐らくZardのコアなファンは、この状態においてCDを買うという事はまず無いはず。それはコアなファンなら、当然の様にリリースされたものは揃えているはずで、ここ数日でCDを購入した人は、コアなファンと言うわけではないだろう。それはいいのだけど、問題はこの先。恐らくレコード会社は、人の死を商売に結びつける。多分手を変え品を変え、色んなものをリリースする。そしてその中には、「未発表」と銘打ったものが登場する。だけどオレの経験上、未発表だったものにろくなものは無い。オレは尾崎豊のファンだったこともあって、だから彼の死の時の事、そしてその後の事を思い出すのだけど、オレは尾崎の死後、製作途中だったというアルバムが無理やり発売されたものを聴いて、それ以降、尾崎豊という名前の入った物を買っていない。多分今後も買うことは無い。それは、その無理やり出たアルバムが面白いと思えるものではなかった事と、それ以降に出た未発表と言うものを聴く機会があった結果の話。簡単に言えば、それらはどれも生前に出たものに匹敵するようなものではなかったからで、そういう無理やりな事をやる企業と言うものに、かなりの気分の悪さを感じたからだ。そうは言ってもファンなら手が伸びる気持ちもわかるし、Nirvanaの様にそれなりのクオリティーのものが残っている場合もあるので一概ではないけれど。でも、こういう時にこそ、音楽に携わって金儲けをしている人間の誠実さが見たい気がする。