高柳昌行

恐山の『みみどこですか』を聴いて、これと近いテンションという事で頭に浮かんだのが高柳昌行の『Mass Hysterism』だった。という事で、『汎音楽論集』を読んでの感想を書いてみる。ホントは書かずに済まそうかと思っていたのだけど。

『汎音楽論集』は高柳が生前に書いた(当たり前)ジャズ雑誌等への寄稿を集めたもので、だから著者も高柳自身になっている。55年のものから年代順84年のものまで並んでいるのだけど、特に初期のものは日本語表記が現在と違うため、かなり読みにくい(それはこの本にかかわらず、古いもので現代用に改訂されていないものはそれが当てはまる)。内容的には、その時代のジャズ・ギタリストや、先鋭的な音についてのもの、高柳自身の当時の活動状況などについてのものが多い。そして、他者に関する文章では批判的な内容が目に付く。自らの技量と勤勉さに自信があることの現われだろうと思うけれど、正直言って、読んでいるのが嫌になるような内容のものもあって、個人的にはあまり感心しない。特に嫌な感じを受けたのは、Coltraneを持ち上げていた時期がありながら、Aylerを知る事によって「Coltraneは歌謡曲」などとの給うところや、自身がクスリで服役していた事への「自分だけじゃない」という反省の色の無い話は、人間性を疑うと言わざるを得ない。そして、やたら技術があってしかりというある意味当然の事を唱えるのが目に付くのだけど、たとえば晩年のAction Directは、果たして技術的なアプローチとして、本当に問題の無いレベルだったのか?と言う事が気になる。オレはAction Directというスタイルは否定しないけれど、必ずしもあれが、当時、最も聴くべきノイズだったかどうかと言えば、他のノイズ音楽に比べてその極みに達していたとはいいがたい部分があると思っている。だけど、たとえそうであっても、技術的に不足しているとしても、実験する場というものを人前にさらけ出して、それを一つの場として扱う事に異を唱えるつもりは無い。でも高柳の元々の主張は、技術がある程度に達していない状態を否定するもので、それならば自らのAction Directという手法に、どれだけの自信があったのか、そしてそれがあるならばその裏づけが知りたいと思う。残念ながら、『汎音楽論集』には、そのあたりの記述は無い。もう一つ気になるのは、『汎音楽論集』の表紙のパクリ元である『解体的交感』のもう一人のプレイヤー、阿部薫についての記述が見当たらない事。阿部とのコラボレーションが短命に終わった理由を記したものがあるのかどうか知らないけれど、もしそういうものがあるのならば、それを載せてこそこの本の価値はあると思っていたのに、それが見当たらないという事は、個人的にはこの本の内容に意味を見出せるところが少ない。









高柳昌行 『汎音楽論集』




本の装丁というか、構成というか、ページを振っていないので、文献を集めたものとしては扱いにくい。初めから終わりまで、通しで読む必要性の高い本というのは、小説などの物語性のあるものなのに、この手の一部のマニア向けの資料的な本としては、こういうカッコつけは要らなかった。



まあ、いつもの様に、これはオレ個人の考えだし、「バカじゃねーの?」と思われる事も覚悟しているのだけど、ここに書いた事が本音の感想だし、別にこの本が気に入らないからといって、高柳の残した音楽を嫌いになるわけじゃ無い。