Gato Libre

表現の極みといった言葉が似合う音があって、それとして、オレはBaileyやMerzbowの音を聴いていた。そこにある音は、なにか違う次元から音が舞い込んできたようで、音楽というより、音そのものだった。それからはオレの音楽観に大きなブレが生じ始めて、音を探す時に、それと同じ基準の音を追い続けていた事があった。もしその頃、このGato Libreの『Nomad』を聴いていたら、オレはこういう音を笑い飛ばしたんじゃないかと思う。



このGato Libreは田村夏樹を中心としたユニットで、細君の藤井郷子アコーディオンを弾かせ、ギターの田村和彦とベースの是安則克を加えた編成。完全アコースティックを狙ったのか、PAの必要の無い状態で演奏する為のユニットらしい。楽器を持ち歩いてその場で演奏できるような、そういう狙いがあるのかもしれない。

「憂いを帯びた音に哀愁のメロディー」、恥ずかしくなるような言葉だけれど、その言葉がこれぐらい当てはまる音も珍しい。BaileyやMerzbowが全てを真っ白に戻していく(消していく)ような音だとすれば、Gato Libreは、いつかどこかで見たことのある風景を、もう一度描いてみようとする様な音。そしてこれは、日本で生きているオレ達の感情に直結する音。









Gato Libre 『Nomad




ってこれ、実は05/09/05の投稿のアルバム名だけを変更したもの。一応『Nomad』を聴いてインプレを書いてみたら、殆ど同じような事を書いてしまって、何か違う事を書こうと思って既に数ヶ月。年を越してしまった。もう、このままインプレ無しでいいかと思ったけれど、それもなんなので、考えた結果がこういうワザ。サンプリングじゃないし、引用でもないし、マッシュアップでもなく、ただの盗用。でも、自分の投稿の盗用だから、何の問題も無い。が、こういうことをあんまりやるとアレなので今後は控えるけれど、一つのバンドで活動しつづけている人達と違って、いろいろなユニットを立ち上げたり参加しているようなミュージシャンは、そのユニットの個性が一つの方向性を示しているので、アルバム毎に大きく印象が変わるような事はあんまり無い。だからGato Libreに限らず、同じような事をずっと書き続けているという事に今更気が付いたりした。



さすがにこれじゃなんなので少し補足すると、Gato Libreはメロディーを重視したグループで、その曲想にはムード歌謡的なものを感じる。歌謡曲というのは、日本らしく色んな影響を受けた雑多なものが入り混じった感じと言えると思うのだけど、その中で日本らしさという部分を作ってきたのは、マイナーな曲調を好む傾向という事だと思う。そういった部分がGato Libreというか、ある時期からの田村の書く曲には感じられ、このアルバムでも、田村の吹く旋律や、郷子ねーさんのアコーディオンからは、クラシックは端折った欧州的な音(メロ)や、地理的に反対側のAstor Piazzolla的なものが含まれている。

朗々とラッパを吹く田村を、バックが同じ音色を目指すような感触で演奏を作り上げる。甘いというよりも懐かしい響きは、本当に色んなものを失くしたような気分にさせられるけれど、時折出てくるアグレッシブな絡みでなぜかホッとしてしまう。普通はそこで引き込まれるという状態になるはずなのに、このバンドの放つある種の終末感のせいで、棘が刺さる瞬間の方が安らぎに感じる(別にMでは無い)。

この音が直結する場所って、今でも日本のどこかにあるのだろうか? もしそういう場所が無ければ、この音楽は「架空線上の音楽」になってしまう。



それにしても田村夏樹、『A Song for Jyaki』や『White & Blue』のハードコア感覚とGato Libreは両極端な感じなのだけど、この極端さを内包しているという事は、何気ない存在のフリをして実はかなりの器だという事を再確認。