音遊びの会

このところ反省する事が多いのだけど、『音の城 / 音の海』はその中でも特にそう思う部分が多い。

大友良英のブログで、彼が知的障害の子供達と音楽を通してのコミュニケーションをはかるワークショップに参加して、その成果のコンサートの模様がCDとして発売される事は知っていた。そのCDがタワレコにおいてあるのを見て、「ああ、これか・・・」と思ったけど、購入せず。が、結局つまらなくてもいいやと思い購入した。



『音の城 / 音の海』というCDが発売されるという事は、その関係者の自己満足としか思えなかった。商品として流通させるようなものが出来上がっているとは思えなかった。他人の思い出作りに金を出す気にならなかった。だから『音の城 / 音の海』を聴くと、オレは否定的なことを書く事になるんだろうと思い、だけどこのCDの性質上、批難めいた事を書く事は気後れするので、1度聴いて聴かなかった事にするつもりだった。ところが『音の城 / 音の海』は、オレが好んで聴くフリー・インプロヴィゼイションと同じ感覚で聴ける。下手な演奏ではなく、自由な演奏として音が聴こえてくる。子供とか知的障害とか、そういう言葉を使って、その純粋さとかそういう事をいろんなところで目にする度に「はいはいはい」と思っていたけれど、このCDで聴ける音はまさしくそれらの言葉どおりの音で、音楽以外の事も含めて、色んな事を考え直す必要がある事に気付いた。



演奏的には大友良英千野秀一といった優れたインプロヴァイザーや、元々知的障害者との即興演奏を行っている大人が加わったものになっているけれど、彼らはあくまでもサポートと小さな舵取りを行っているだけで音の大半は子供達によるもの。これが単なる学芸会のビデオと決定的に違うのは、ここに参加している大人の目線が、学校教育とか我が子可愛さの親の目線とは違うところにあるからだと思う。結果として、一級のドキュメントとしてだけではなく、優れた即興演奏をパッケージしたものになっていて、その事がオレの偏見に大きな揺さぶりをかけている。



『音の城 / 音の海』を聴けば、フリー・インプロヴィゼイションや五線譜をなぞる演奏、演奏するという行為やそれを聴くという事、既製の楽器を使うことや使わないこと、録音するという事とか音が空中に消えてしまうという事、その他諸々の音楽を作り上げる要素等々、そういう事の意味について、色々と頭の中に浮かんでくる。









音遊びの会 『音の城 / 音の海』




色々言っておきながらなんだけど、『音の城 / 音の海』を聴く時、フリー・ジャズかフリー・インプロヴィゼイションというものに多少でも好意的な理解が無ければ、伝わらない部分があると思う。