Para

山本精一が数年前にチャイナと始めたユニットがPara。そのチャイナは居ないわけで、その状態になった時に山本精一は、同じくチャイナを迎えて活動していた羅針盤を封印してしまった事を考えればParaもそのまま終わってしまってもおかしくなかったとだろう。だけどParaは途中から2ドラムになり、チャイナ亡き後ももう一人のドラムがいるという事が、このユニットをそのまま終わらせずに続ける気持ちを呼んだのかもしれない。

そのParaの1stアルバム『X-Game』が発表され、興味の対象から外す事も難しかったので素直にCDを購入。事前に山本のインタビューなども読んでいたので大体の音の想像は出来ていた。曲にメインのフレーズをおき、音を外す事無く演奏しつづける。フレーズはバリエーションのようなものをはさみながらまたメインに戻り、アドリブは展開しない。言ってみればこれも一つのミニマル・ミュージック。派手な運指ではなく、出来るだけ簡単なものを選んだと思えるようなフレーズの数々を、間違えないように丁寧に演奏する。まるで小学校の音楽の授業のような音楽のやり方だけど、今の山本にはこのやり方を続ける意味があるのだと思う。









Para 『X-Game』




4曲収められた『X-Game』には、10〜14分程度の演奏が収録されている。例えば10分程度、あまり難しくないフレーズを、丁寧に演奏するだけの事ならばあまり難しくないと思われそうだけど、それを山本はインタビューで本当は難しいというような事を語っていた。そういう演奏についてはGlassだかReichの話でも、実は単純なフレーズを延々繰り返す演奏というのは凄く難しいという事を言っていて、確かに、遊びで適当にギター弾いているだけのオレが試しに簡単なフレーズを1分ぐらい弾いてみると、途中から思いっきりずれた状態になる。ずれても全然構わなかったり、ずれていてもあんまり気にならないようなものというのは実はたくさんあるけれど、ずれない事を基本に持ってきたParaの演奏というのは人工シーケンサー的なものを狙っている。とも言えると思うけれど、実際にはライブにおいてずれてしまった事、ずれてしまうという事に対して目くじらを立てると言う事ではなく、そこで生じるずれから発生する揺らぎを楽しむという事も考慮していて、結局Reich的だなあと思う。それと、山本精一は、即興した後の空しさみたいな事を言っていて、アヴァンギャルド系としての自分の演奏に疑問を感じているようだけれど、だけどオレの思っている事を言わせてもらえば、オレは山本精一という人をアヴァン系のギタリストだと思った事は無い。確かにノイジーな音もあるけれど、少なくてもCD上においては即興的な側面を強く打ち出していると感じた事は無くて、それならばライブにおける山本のギターというものが自らをアヴァン系として語ってしまう事の何かがあるのかもしれないという考えが頭に浮かぶので、ライブという場における山本の演奏というものを聴きたくなった。

と、まあ、実はオレはあまり山本精一というミュージシャンに注視した覚えは無くて、Boredomsを知ってから名前を覚えて、その中ではEYEの次に気になる存在ではあったけれど、いつでも新作や色んなユニットでの活動が気になっていたわけではない。だからライブを見た事は無いのだけど、手持ちのCDを見てみると、なんやかんや言いながら山本絡みのCDは多くて、気になるならないじゃなくて、日本のアンダーグラウンド(マイナー)な場所で演奏活動を行っているミュージシャンの音楽を聴いていれば、必然的にリンクされているのが山本精一だという事に気がついた。



話を元にもどして。『X-Game』の1曲目「Cube」は、Claudia Quartetを思い出させるようなトラック。曲調は明るく、教育テレビで流れていても違和感は無いかもしれない。マリンバの様な楽器(クレジットには無いので、多分打ち込み)とギターがユニゾンでリフを弾いていて、それもCQを思い起こさせる大きな一因。

2曲目の「Crystal」は、ギターによるリフが引っ張る。ワウのギターもいい感じで音を入れてくる。なので最もロック的な演奏。でも、若干フュージョン風味もある。

3曲目の「Systrum」は、このアルバムで唯一暗い音のトラック。エレクトリック・ピアノの様な音のリフが曲を引っ張る。うねるベースの音が印象的。なので最もジャズ的な演奏。

終曲「Arabesque」は、シンセによるエレクトリックな音を使ったサウンド・スケープ的なイントロで始まる。この音とか、この曲の序盤のリズムはテクノがあったから出てきた音だと思えて、その「Arabesque」という曲の美しさに、なんとなく電気グルーヴの名曲「虹」とつながる牧歌的なリリカルを感じる。で、美曲とか名曲とか、オレは自分の価値で適当にそういう事を言っているのだけれど、一応は基準があってそれを言っているつもり。それは、別にオレの好きな曲とか演奏=美曲名曲ではなく、この手のちょっとマイナーな音楽を知らない人達が聴いても、いいと思えるようなものを美挙とか名曲として扱っているつもり。アップな曲はどういうものが受け入れられやすいのかよくわからないので、だからオレが美曲とか名曲と言うものは大体ミドル〜スローで、覚えやすいメロかリフ、そして大体マイナー調のものが多い。そういう選択自体もオレの趣味が出ているのかもしれないけれど、例えば前日の投稿になっているはずの今堀恒雄 / 吉田達也の「Autonomy」やUnbeltipo(Trio)の「Fake Rose Garden」と、その対面的な速くてヤバイ曲なんかをあまりそういう音を知らない人に取っ掛かりとして聴かせて、どちらもダメならば他もキツイだろうと思って、それ以上聴かせるような事はしないようにしている。



・・・って、結局脱線したか。とにかく、このアルバムを聴いていると、ここにもう1人のドラムが加わっていたらどんな事になっていたんだろうとか考えてしまうけれど、恐らく、CDにおいてはそんなに大きな違いは感じない。ツイン・ドラムがより有効なのは、やはりライブの場においてだと思うので、もしParaのライブを見る機会がいつかあれば、その時はこの考えはさらに強くなるかもしれない。でも、多分ライブ活動はしていたと思うので、そうなると、ツイン・ドラム状態を聴いていた人達が、現在のマイナス1な状態をどう感じているのか気になる。