Altered States / 高橋悠治

昨夜のピットインはAltered Statesと高橋悠治でのライブ。この組み合わせでライブをやると知ったとき、「へええ」と思った。イメージ的には水と油。でも高橋悠治と内橋和久は共演歴があるらしく、その上での共演ということはオレの思い込みで水と油にするのは間違った考え。

とりあえずピットインに向かう。「月曜だし、どのぐらいの集客が?」と、毎度同じことを考えてたどり着くと、既に20人以上は人がいた・・・。少し驚く。開場までには50人はいたような気がするのだけど、いつの間にこんなに人気が? 高橋目当ても多いのだろうか?

まあそれはいい。1stセットは、フルで1曲の演奏。多少の構成はあると見られ、内橋と高橋がぶつかり合うといった感じではない。各々の持ち場をこなしながら、思ったよりも淡々とした演奏になる。ナスノミツルのベースと芳垣安洋のドラムも、いつもよりもグルーヴを抑え、煽るような感触は少ない。ただ、その表面的に淡々としていながらも、音のアグレッシヴ度は高く、オレが今まで聴いたASのライブでは、もっとも音が尖っていた。

2ndは2曲に分かれていたけれど、演奏の印象は1stセットと変わらず。ASらしいアゲアゲな瞬間は無く、らしい音が来たと思っても、いつもの様に突き抜けていく感じとは違い、その手前をキープしつづけているようで歯がゆさを感じないでもないのだけど、その音にあわせるように音を紡いでいく高橋のピアノは、もし、フリー・ジャズなピアニストであればドシャメシャな展開に持っていくことは確実な状態であっても、高揚する事なく冷静に音を並べる。その高橋の音を拾って聴いていると、オレが今までに聴いたことのある類のものとは違う感触があって、それが緊張感を呼んでいるように思えた。

アンコールは短めの演奏で、ここではAS節炸裂。一気に熱を上げる様はさすがな領域。




Wikipediaは凄い。高橋悠治の事も詳しい。現代音楽に詳しい人が、色々書き込んでくれているのだと思うけど、こういうのが共有されている事が、インターネットの功罪の功の部分だと思う。

で、オレは2〜3年に一度「クラシックを聴いて知ったかぶりしたい」病にかかる。そんな時はとりあえずCDを買いに行くのだけど、作曲者別に置いてあるCDコーナーに馴染めず、結構場違いな思いをしながらCDを漁っていた。その時は「やっぱGouldだよな」と、他と比べたことも無いくせにやたらGlen GouldのCDを買っていた。どうもGouldと言えばBachという事になっているらしく、時折平均律とかその辺を聴いていたのだけど、どうにも面白いと思えない。それである時、レコファンの新作コーナーに高橋の『Goldberg Variation』の新録が置いてあり、なんとなく購入。一応現音な人として高橋は知ってたけれど、そのうち聴けばいいと思って特に興味の対象にしていなかったのに、よりによってBachで高橋の音を聴くことになった。初めは、Gouldとの違いを聴き取ろうとしたのだけど、よく考えたら何故かGouldの『Goldberg Variation』は聴いていないことに気づき、仕方なく単純に『Goldberg Variation』を聴いていた。まあ、はっきり言って面白くは無かったけれど、繰り返し繰り返ししつこく聴いているうちに、Bachが与えた影響がわかった。それは、まんま、Bachのフレーズがポピュラー音楽に使われている部分があることに気づいたという事で、その事がちょっと嫌な感じもしたけれど、結局ロックなんてものは、クラシックがあったからこそ存在しているんだなあ、と、今更ながら気づかされた。

来年来日するCecil Taylorも、「クラシックを聴いて知ったかぶりしたい」病を患った時、王道のクラシックばかり聴いていると結構辛かったので、一応普段から多少聴いていた現音も再入門という意味で、聴いてなかったSchoenbergとかWebernとかBergなんかの古典を聴いていた時に、誰のCDだったか覚えていないけど、「これってCecil Taylorじゃん・・・」と思い、Cecil Taylorの音楽的語彙に現音がある事に気づき、これもちょっと「なんだかなあ」と思った。