Jim O'Rourke

ニュー・ミュージックの作曲家、Morton Feldmanによって生み出されたといわれる図形楽譜。それは従来の五線譜を用いず、何か別のルールや記号、図形等を使って表現されたもので、たとえば四角形が書かれた譜面があるとして、それについて少しの指示(3分間演奏とか、ペダルを踏みつづけて演奏とか、多分そういう事)があるのみで、あとは演奏者の解釈によって実際の演奏が行われるというもの。これは不確定な要素を作曲に取り入れ、単純に完璧に譜面どおり演奏を行うことが美学であるクラシックにおいて、ジャズ的なアドリブの概念を取り入れる為の安易な発想とインテリジェンスが生み出したものだと思う。試みとしては面白いけれど、それは結局クラシックにおいては確立されたとは言い難く、現状、それがどれぐらいクラシックのコンサートという場で実践されているのか、疑問が浮かぶ。

アドリブすることで音楽的効力を発揮する(モダン)ジャズにおいては、コードやモードから逃れる為にフリーが生まれたけれど、それは知性とか音楽論理から生まれたものではなく、単純にそれで面白ければOKというスタンスがあったのだと思う。但しそこからAnthony Braxtonの図形楽譜を用いた楽曲が生まれ、後のJohn ZornCobraというプロジェクトにおいて図形楽譜を用いていることから、クラシックにおいては机上の論理的だった図形楽譜を3次元化しようとするとでもいえそうな試みを続けている。

まあ、それらはオレの勝手な解釈なので大きく外しているという指摘は喰らいそうだけど、それでもJohn CageもFeldmanも、12音が使えることになっただけの状況のクラシックと、譜面に書かれていない部分が一番面白い状態のジャズを比べたのは間違いないと思う(どちらもアメリカの作曲家だし)。それをなんとかクラシックに取り入れようとしたの事の一例が図形音楽なのではないかと思うのだけど、それなのに単純にジャズに向かわなかったのは、作曲家よりも演奏者のイマジネーションが全てのジャズのアドリブにおいては、あまり作曲家という存在は重要視されないことと、ジャズにおいては作曲家=演奏者であることも多々あり、楽器の演奏をして評価されるという点に、今更クラシックの作曲家が納得できるわけも無いということだったのかと思う。



と、勝手な思い込みを書き綴っているのは、Jim O'Rourkeによる武満徹の曲を演奏した『Corona - Tokyo Realization』を聴いて、その解説を読んだからで、それが無ければ一々こんなことを考えたりはしない。その『Corona - Tokyo Realization』は「Corona for Pianist(s)」という武満による図形楽譜での楽曲が2テイク収められている。それをO'Rourkeはタイトル通りにピアノで演奏していて、O'Rourkeがピアノを弾くことは知っていたし、オレの持っているCDの中でもピアノを弾いているものもあるかもしれないけれど、全編にわたってO'Rourkeのピアノを聴くというのはこれが初めて。その印象と言えば、まあ、こういうものなので特にどうという個性を見つける事は難しいけれど、図形楽譜が枠を設けた即興的な演奏として捕らえるならば、その枠の中でO'Rourkeは即興しつづけているし、当然ながらフリー・ジャズというよりもフリー・インプロヴィゼーション的な音だと思う。武満の図形楽譜についてのO'Rourkeによる説明がライナーに付いていて、それを読む前に聴いた印象と、それを読んでから聴いた印象も特に違いは無いけれど、そのライナーは演奏工程についても多少明記されているので、「ここはそれでこうなのか」という事がわかるのは面白い。









Jim O'Rourke 『Corona - Tokyo Realization』




Wikipediaを見てもらえばわかるけれど、Feldmanが結局「自分の意図を反映しない」という理由で図形楽譜を見放し、延々ピアニシモな曲を作るようになったというのは、やはり作曲家のエゴかなと思う。偶然性を求めながら自分の意図しないものは聴きたくないのならば、自分で演奏するかその手法を見限るしかないわけで、そういった意味では図形楽譜を捨てたということは筋がとおっている。オレが聴いた事のあるFeldmanの作品と言うのは、その延々ピアニシモなもので、決して面白いと言うようなものではないけれど、現代の微音弱音系なミュージシャン達の先祖的な音として捕らえることも出来るかもしれない。