Noto

Notoの名前を知ったのは、池田亮司との『Cyclo』だった。ただしこの手の音で誰がどの音を出しているのか、それがわかるほど精通しているわけではないので、Notoの事はあまり気に留めていなかった。それが、Fennesz坂本龍一の共演の流れで、それ以前にNotoと坂本龍一の共演作がある事を知り、「また坂本龍一の悪い癖が出たか」と思いながら、その作品に手を出してみた。その共演作は、Notoの作る音に、坂本龍一のクラシカルな響きのピアノが重なるといった趣で、坂本龍一のファンや、アンビエント音楽が好きな連中にも受け入れられるものだと思う。



そのNotoの本質を表している作品は『Telefunken』だと思うけど、この作品の楽しみ方の一つにビデオデッキにつないで・・・というのがあって、オレはまだそれを試していないので、今度それを試してみたい。



いま聴いているのは、昨年末から今年にかけてリリースされたEPで、これは三枚で一つのシリーズになっている。リリース元のRaster-notonのHPを見ると、この三枚を収める為のボックスも販売されてて、ちょっと欲しくなった。この三枚のEPには、ダンストラックとしても通用しそうな予想外に線の太いリズミックなトラック(クリック系?)がある。もちろん、パルスや周波数と言ったタームで語られるような音を使っているし、印象としてはやはりミニマルな音。3枚のEPで一時間ちょっとぐらいの長さなので、この三枚をまとめて聴いていると変化があって、Noto絡みの作品としては坂本龍一の共演作と同じぐらい、聴きやすいものじゃないだろうか。



そしてこのCDの特筆すべきはパッケージング。Raster-notonの作品は、もともと普通のCDケースを使っていなくて、そういうところにレーベルの心意気みたいなものを感じる。LP(アナログ)からCDに変わっていく過程で、オレが気に入らなくなく感じていたことが、CDがLPのダウンサイジングなパッケージでしかないと言う事。実は紙ジャケに一時期嵌っていた事もあるけど、あれは凄く後ろ向きな物でしかないと気付いた時に、わざわざそれを買っていたことがバカらしくなった。そして最近発売されたでかジャケとかいうシリーズには、愚の骨頂という言葉が思い浮かんだ。肝心のNotoのEPだけれど、これは紙で出来たジャケットを使っていて、これも略してしまえば紙ジャケである。ただし縦に長いジャケットになっていて、所謂紙ジャケの、LPのミニチュアとは意味が違う。その中に入っているCDも、音の記録されている部分は勿論記録媒体が入っているのだけれど、そうではない部分は、シースルーになっている。このスタイルは、藤原ヒロシAPCから出したEPで見たのが初めてだった。CDの盤そのものにも、ちゃんとコンセプトを持ってパッケージングされると、これを所有する事が一つの楽しみにもなると言う事につながる。

大量生産される商業音楽の中で、右へ倣えの曲に、同じようなパッケージング。

もちろん、それらの中にもいいものもあると思うのだけど。そういったもので、所有する事の楽しみを奪ってしまった結果が、現在の大手レコード会社の業績不振につながってるのではないだろうか?、リッピングされたCDRや、圧縮されたMP3をファイルで持っているだけで十分と思わせるようなものしか作れないのなら、今のシステムが崩壊するのは当たり前だろう。



ちなみにNotoは、この三枚のEPや坂本龍一との共演作ではAlva Notoと名乗っていて、いくつかの作品ではCarsten Nicholaiと名乗っていたりする。ちょっとわかりにくかったりするが、仕方ない。